明日、目が覚めたら違うわたしに。
叶わないまま、幾度の朝。
彼と再会したのは半年前。
グレーのストライプスーツにボルドーのネクタイが、恐ろしく似合っていた。
上背のある身頃で「穂波。」と、私の名を呼んだのだ。
呼ばれたその顔をうすらと見上げて、半ばしてその彼が幼馴染みであることを知る。
杉山くん、とその名前を口にしたのは実に五年振りである。
春の麗かさが一際その輪郭をぼやかしていたが、しばらくしてそれは眩しい程鮮やかに象られ私の中にみるみる蘇った。
「久しぶり。今日仕事は?」
杉山くんはよく磨かれた革靴を鳴らしながらこちら
に爪先を向けた。
「今日は、休み貰ったの。」
昼前のオフィス街に人は疎ら、陽射しはにわかに水色だ。
杉山くんは、と口を開きかけた所でふ、と注がれた視線に気が付くことになる。
それから薄茶の瞳の中に、自分を見た。
杉山さとしのこの柔らかさに軽く狼狽える、彼はいつも花の様な甘さを孕んだ眼差しで私を射抜くのだ。
そこに懐かしさという気軽さを纏う、幼馴染みの怖さとは。
「なに?」
努めて至極冷静に放つ声に、杉山くんは何でもないと笑う。
何でもないと云うには熱を纏う口許に、私の首筋はちりりと痛む。
「本当に久しぶりだな、と思って。」
「そうだね。最後に会ったのはいつだったけ?」
「穂波が結婚してから会ったっけ?」
「どうだったかな?」
「どうだったろうな?」
穂波、と再び彼が言う。
「いつだっていいや。」
いつだっていいんだ、と。
「穂波。」
「なあに。」
「会えなかった分、呼ぼうと思って。」
その呼び掛けに宛が無いことはとっくに分かっていた。
「浮気者。」
「ただ、穂波の名前を呼んでるだけ。」
「杉山くん知らないの?妻以外の女性の名前を呼ぶのがどれほど大罪か。」
「ゴルゴダで磔(はりつけ)かな。」
「そうよ、時代が時代なら。」
ああ、違うそうじゃない。
時代が時代なら、私達はとっくに生きてやしないのだ。
私の結婚が決まって暫くは、杉山くんともちょくちょく会っていた。
お互い大人の領分という建前を笠に着て、お互いを貪りあっていた。
抱き合って、抱き合って、それは骨まで貪りあってやがて尽きて果てる頃、杉山くんは突然結婚したのだ。
職場の専務に進められるがまま、見合いしたのだそうだ。
それを知ったのも友人伝、風の噂だった。
どういう了見かそれを知った私の胸は驚く程軋み、夕飯の支度をするシンクには玉葱の薄皮と涙がほとほと落ちた。
杉山くんと会わなくなったのはそれからだ。
あれから五年も経ったのか。
「杉山くんは奥さん、仲良くしてる?」
「ああ、うちは殆ど喧嘩とかしないから。」
喧嘩にならないんだ、と眉を下げて笑うその顔は五年も過ぎてはいなかった。
私は、私に密かに絶望しているのだ。
「妻に。」
街路樹がさんざめく音が僅かに響く。
「子供が出来たんだ。」
そうか、と思う。
「おめでとう。そうか、杉山くんお父さんになるんだね。」
ふ、と子供を欲しがっていた主人を思い出す。
私との間に授かる子は男だろうか、女だろうか。
どっちも可愛い、きっとそうに違いない、と目を細めていた。
「そうか、お父さんか。」
「うん。俺の子じゃ、ないんだけどね。」
秋の日の、陽射しの頼りなさときたら。
一瞬雲間に紛れただけで彼の輪郭を滲ませるのだ。
「杉山くん。」
「妻はね、泣きながら謝ってた。別れて欲しいんだと思う。正直怒りとか裏切られたとか通り越して、何ていうか。」
これも因果なんだろうな、と。
「杉山くんの?」
「そう、俺と彼女の。」
「因果。」
彼の淡々とした声が、その表情を読み取る事を拒む。
覗いてくれるなとも言っている様だし、しかしその実ひょっとしたら。
「杉山くんは受け入れたの?その、奥さんの事も。子供の事も。」
世間に蔓延る価値観は不道徳と言う、きっとアインシュタイン位だろうこれをそれに当て嵌めないでいるとしたら。
ただ不思議なのは自身の冷静さ、怖いくらいの落ち着きを払う呼吸。
「実はまだ見つかってないんだ。自分がどうしたいのか、どうすればいいのか。妻が望む様に離婚するのが一番なんだけどな。だけど。」
「愛してるんだね。」
「どうだろう。もうここまで来るとどうにもならないだろ、そういう感情論じゃ。」
「もし、杉山くんの答えが出て、ううん、出なくてもいいや。もしもの時は、抱き締めてあげる。」
私が、抱き締めてあげる。
杉山くんの瞳の奥がにわかに揺らいだのが、手に取るようにわかった。
そうでしょう?杉山くん、あなたの欲しかった物は。
「穂波。」
穂波、と彼が呟く私の名はまるで母親を呼ぶ様に心許なかった。
理性と本心の葛藤の表れで彼はそう、もうずっとそんな自問自答。
もういっそ、私に答えを乞えばいいのに。
あの頃の様に会いたいと、私を掻き抱いて気が済むまで傍に置けばいいのに。
「今度こそ俺、磔かな。」
「いっそ、悪くないかもね。」
それならば棘(いばら)の冠は私が被ろう。
「答えが出たら聞いてくれる?俺達夫婦もうお互いに時間がないだろうから。近い内に。」
そう言って笑う杉山くんを見て、やはり彼が奥さんを愛しているのだと思った。
全ての事由を因果と定義付けて大人ぶる彼が数多(あまた)の同級生に紛れた私の名前を見つけ、そして連絡を寄越すまで。
名前を付けるには物騒な、年甲斐も無い高揚感。
私と杉山くんは、再会したのだ。
何の因果か、区役所に離婚届を出しに行った日のことである。
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